1939年 野外走行試験
難所・難路を踏破した3,000kmの野外走行試験

1939年11月に第1号車である「LD1型貨物自動車」が完成すると、直ちに野外走行試験が計画された。当時の日本の道路事情はほとんどが未舗装で、荷馬車がやっと通れるような幅の狭い道路や橋も多くあった。その中でも、特に難所と呼ばれる急坂や急カーブが連続する峠道ばかりを選んでコースが設定された。全行程は、日本列島の長さの1.5倍に相当する3,000kmになる。もちろん、日本では前例のない耐久テストであった。 「いきなり、そんな厳しい試験をしないで、最初は市街地で試験をすればいいのではないか」という意見もあった。しかし、安達の考えは違った。

「我々の目指すのはあらゆる悪路を走ることができる堅牢なトラックである。この程度の野外走行試験をクリアできなければ、お客様に自信をもって製品を提供できない。せっかく苦心して製作した1号車だが、壊れても構わないからより厳しいルートを走ろう」 安達堅造から開発メンバーへの言葉 – 1939年

そして、完成わずか1週間後の11月8日、LD1型に自ら乗り込んで川口工場を出発した。もちろん、開発チームは、途中で起きるさまざまなトラブルを想定して、修理道具や交換部品を十分に用意した。 実際、走行試験は想像した以上の悪路の連続だった。崖が迫り急カーブが続く峠道では、まさに冒険といっていいような走行が続いた。トラックが通ることもできないほど狭い道が少なくなかった。そのたびに迂回路を探してさらなる悪路を走るといった過酷な日々が続いた。それでも、走行試験チームのメンバーは強い意思をもって乗り切り、11月20日、無事に全行程を走破し、川口工場に帰ってくることができた。

しかも、3,000kmを単に走破したというのではなく、結果はきわめて良好であった。LD1型は13日間にわたる走行を通じて、1本のボルトも緩まず、1本のスプリングも折れなかった。ND1型エンジンも最後まで健在だった。そのため、携行した修理道具と交換部品はまったく使用せずに済んだのだ。 それは、当社の技術の高さを実証するものであり、走行試験チームのメンバーはもちろん、LD1型の帰還を出迎えた工場の全社員が肩を叩き、抱き合って喜びを分かち合った。 

1935年にディーゼルトラックの製造に着手して4年、エンジンとトラック製造は困難の連続だった。 その中で、品質の重要性を全員が共有し、製造技術のレベルアップに努めてきたことが、日本で最も険しい悪路を選んだ3,000km野外走行試験の無故障走破につながったのである。 ここに、当社は、日本においてはいうまでもなく、世界においても最新技術テーマであるディーゼルトラックの製造に成功した。この成功に自信を得て、社員は一層団結し、ディーゼル車の量産に取り組んだ。