UD Trucks

日本のコールドチェーンにおける最初のつながり

平成 24年4月16日

文・写真:ジム・ハンド-クキアマン

日本はコールドチェーン技術の最先端を行く国だ。その技術はサプライチェーンで商品を特定の温度(通常は低温)に保つのに必要とされる。また、政府も長年ユニセフとともに発展途上国におけるコールドチェーン・インフラの改善に取り組んでいる。予防接種プログラムを効果的に実施するには、この技術が欠かせないのである。それでは、低温流通に関わる日本の専門知識のルーツはどこにあるのだろうか。
舞台は福岡、物語は進取の気性に富む一人の女性と民生デイゼル工業(UDトラックスの前身)のトラックから始まる。

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1909年(明治42年)に長崎県で生まれた富永シヅ(旧姓・鳥巣)さんは、24歳で網元の家に嫁いだ。その後、夫の富永恒太郎さんとともに福岡に移り住む。より大きな街で商売を始めるつもりだったのだが、まもなく戦時下の厳しい現実に直面し、希望をかなえる道半ばで恒太郎さんが病に倒れてしまった。
「シヅは残された網元の商売を続けざるをえませんでした。しかし、漁業は不安定です。天候次第ですし、その年のツキにもよります。そこで事業拡大の方法を探し、運輸業に進むことを決めたのです」とシヅさんの孫、富永泰輔さんは語る。
1956年、シヅさんは福岡運輸株式会社を設立。民生デイゼルと福岡のもう1社、矢野特殊自動車をパートナーとして、自分が日本を大きく変える道に歩み出ようとしていたことを、その当時の彼女は知る由もなかった。
「それは1957年のことでした」と富永泰輔さんは続ける。彼は今年、同社の社長兼CEOに就任。話をしている場所は、ブラインドから夕方の西日がのぞく同社オフィスの会議室だ。
「占領は終わっていましたが、米軍基地は残りました。米軍は基地間の生鮮食品輸送を自分たちでやっていたのですが、その年、地元企業に外注することを決めたのです」
しかし、そこには問題が一つあった。日本にはまだ低温輸送の技術が存在していなかったのだ。
「米軍は通常の貨物輸送で取り引きのあった日本の運輸会社に冷凍輸送の話を持ちかけたのですが、福岡運輸以外の会社は断ったのです」
これをシヅさんは引き受けたのである。そしてここで矢野特殊自動車と民生デイゼルに出番が回ってくる。
福岡運輸は冷凍ボックスとそれを運ぶことのできるトラックを必要としていた。富永さんによれば、彼の祖母と矢野特殊自動車の創業者である矢野倖一さんは、福岡の事業主仲間として自然に協力し合ったのだという。2人は一緒にこのプロジェクトに取り組むことで合意し、矢野特殊自動車が冷凍システムを担当することとなった。
一方、民生デイゼルは、富永さんいわく当時としては大きな7.5〜8トントラックを提供することができた。
関わった誰にとってもリスクは大きかった。
「もし彼らがトラックを作るのに失敗していたら、福岡運輸は廃業していたかもしれません。当社は民生デイゼルのどなたかから『これはどちらにとっても自殺行為となりかねませんよ』と言われたようです」
それでも3社はひるまず、どのような形になるか確信がないまま、パズルを組み立てるような過程を推し進めた。最大のネックとなったのは冷凍コンプレッサだった。
「アメリカにはコンプレッサがあったのですから、単に輸入の問題だったのだろうと思われるかもしれませんが、当時、物事はそんなに単純ではなかったのです」
1958年終わりまでに、冷凍トラックは製造し終えていたが、コンプレッサの問題はまだ完全に解決していなかった。
「それでもとうとう彼らは解決策を見つけました。なんとか米軍の古いコンプレッサを入手したのです」
万策尽きて、途方に暮れたその時、思いがけず米軍から救いの手が差し伸べられた。軍用で使い古され、スクラップ同然のものだったが、冷凍ユニット一式を「貸与」の名目(実質供与)で譲り受けることができたのだ。
「福岡にある矢野特殊自動車の工場に運び、分解してどうやって再現するかを解明しました」
障害となったのはコンプレッサだけではなかった。運輸省(現国土交通省)が民生デイゼルと矢野特殊自動車による冷凍トラックの登録を、標準から大きくかけ離れているという理由で渋ったのである。しかし、シヅさんはなんとか当局を説得し、福岡運輸リーファー・サービス(命名者は米軍のある司令官)が誕生した。
まもなく、日本政府が冷凍輸送を全面的に推進するようになった。1965年、科学技術庁(現文部科学省)がコールドチェーン促進を目的とする勧告を発表。福岡運輸リーファー・サービスは1967年までに120台のトラックを保有していた。

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「この技術は経済を大きく変えました。低温輸送と家庭冷蔵庫の普及が組み合わさり、食品ビジネスと日本人の食生活は確実に変わりました」
これは台所革命と呼ばれている。
時間を現在へと早送りしよう。福岡運輸は冷蔵冷凍輸送サービスを提供しているだけではなく、そのスペシャリストとなっている。全国の拠点をつなぐ独自のコンピュータシステムを使用することで、同社は食品から医薬品まであらゆる物を厳密な温度管理の下に配達できる。
「技術だけではありません。それをどう使うかも重要です。仮に箱を一つ運んでいるとしましょう。箱の中身に問題がなくても、箱を傷つけたら問題です。それは温度と関係のないことですが、このことが輸送に対する日本人のアプローチを表していると思います」
福岡運輸は今、UDトラックスの保有台数を増やしつつあり、現在稼働しているのは28台だ。歴史の中で結び付いてきた両社は、未来に向かっても一緒に進んでいる。
UDトラックスがまだ日産ディーゼルだった2006年、福岡運輸は創業50周年を迎えた。この記念事業に向けて両社はつながりをさらに深めた。
「この大きな節目を祝うために、私たちは日産ディーゼルに初期の冷凍トラックの1台を復元してもらうように依頼しました」
最初のステップは民生T80のシャーシを探すことだった。
「仮に見つけられたとしても、所有者が売ってくれるという保証はありませんでした。最初に見つけたものは、コレクターズアイテムだったので所有者が手放さず、2番目に見つけたものは復元が難しく思われました」と富永さんは当時を振り返る。
日産ディーゼルは1年ほど探し続け、思いがけず広島で入手する。その時でさえ、「その広島の会社はT80を2台保有していて、そのうち1台だけ売ることに同意した」(富永さん)のだった。
日産ディーゼルの復元努力を富永さんは大いに称賛する。
「まるで作業員の技能オリンピックみたいでした。キャビンには穴がいくつか開いていて、かなりひどい保存状態でしたが、日産ディーゼルのチームの超人的な努力によって、ぼろぼろのトラックが新品同様に蘇りました」
矢野特殊自動車も協力し、設計図を基にFB-7型冷凍ボックスを復元した。その結果、新品同様の運転可能なトラックのレプリカが出来上がり、今は福岡運輸のオフィスの外に大きなガラスケースに収められて展示されている。

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福岡運輸にとって2006年は祝いの年であったが、悲しい年でもあった。同年5月、シヅさんが他界したのだ。享年97歳だった。富永さんによると、6月、くしくも福岡運輸が創業者のお別れの会を開く前日に、日産ディーゼルと矢野特殊自動車はそのレプリカを完成させたという。
「お別れの会の会場にそのトラックを置きました。昔を知る人たちが大勢いらしたので、そのトラックを見てもらいたいと思ったのです」
さらに最近、福岡運輸、民生デイゼル、矢野特殊自動車は、揃って正式に日本の革新の歴史に名を残した。2012年9月11日、国立科学博物館が冷凍トラック第一号を重要科学技術史資料として、ソニーのウォークマンをはじめとする世界を変えた発明の数々とともに認定したのだ。同博物館のパンフレットには、シャーシが1961年製作、FB-7が1960年製作と記載されている。
一つ疑問が残る。なぜシヅさんは他の誰もが尻込みした挑戦に立ち向かったのだろうか。
富永さんはしばらく考え、こう語った。
「彼女がなぜそうしたのか、正確に言うことはできません。当時、彼女には東京で大学生活を送る息子、つまり私の父がいました。社長でありながら、母親でもあった。そして母親として、彼女は自分の息子に新鮮な食べ物を福岡から東京へ送ろうと考えた。それが一つの理由だったのだと私は思います」
もう一つの理由は、彼女が米軍基地を訪れた日に初めて見た冷蔵庫だったようだ。
「たぶん彼女の直感が、これは日本社会の役に立つようになると告げたのでしょう」
こうして、シヅさんのビジョン、民生デイゼルのシャーシ、矢野特殊自動車の冷凍ボックスが組み合わさり、日本におけるコールドチェーンの最初のつながりが形成された。そして今ではこのつながりは海外まで広がり、国際社会でも役立っている。