UD Trucks

世界で活躍するUD (日本):復興への長い道のり

平成 27年4月1日

文・写真:トニー・マクニコル

2011年3月11日の地震と津波から1週間、UDトラックス岩手株式会社アフターセールス本部の玉山智子本部長は、被災地釜石にようやく足を踏み入れた。
それは寒々とした光景だった。津波は左右の渓谷の合間を縫って、 内陸深くまで到達していた。釜石出張所は海岸から500mほどの場所にあったが、津波の高さは10mにまで至った。建物は完全に流され、周りにあった住宅もみな消えていた。
「涙があふれて言葉になりませんでした」と玉山本部長は語る。
営業本部の村井正行本部長が現地入りしたのは3月16日。やはり大きな衝撃を受けた。
「完全に何一つなくなっていました」
被災規模は計り知れないものだったが、確かなことが1つだけあった。それは、地域全体に存在していた釜石営業所のお客さまが、みな津波による大きな打撃を受けていたということだ。オフィスや設備装置、車両は損壊し、サプライチェーンは深刻な混乱に陥っていた。
数週間経ってようやく、最初の一握りのお客さまが事業を再開できたが、ほとんどは水、食料品、燃料、動物用飼料といった生活必需品の緊急物資輸送だった。他の事業が再開するにはさらに何カ月も要し、いまだに再開できていない事業も多い。
震災直後の混乱はお客さまの状況把握に支障を来し、UDトラックスの従業員は自ら行動を起こす必要を感じた。
できるだけ多くのお客さまが一刻も早く事業を再開できるよう力にならなければならなかった。UDトラックス従業員にとって、それはミッションとなり、復興努力を支援する道となった。
この目的に突き動かされ、チームは懸命に働き、2年以上の間、想像しうる最も困難な状況の中、あらゆる方法でお客さまを支援した。
「何をすべきかはわかっていました。私たちは輸送業界のプロであり、お客さまが車両を使う助けになりたいという思いがありました」と、藤澤千孝代表取締役社長は語る。


混乱の中で

支援の必要性は、切実の一言に尽きた。盛岡の従業員は毎日釜石まで通ったが、通常2時間半の道のりも、道路が損壊していることと復旧車両による混雑で4時間かかった。
お客さまがどこにいるか探すだけでも大変な困難を伴った。100を超える避難所を1つ1つ回り、ようやく顧客リストの一部が完成したのは5月半ばだ。
「お会いした多くのお客さまがすべてを失い、それでも復興支援のために全力を尽くしていました。車両を再び使い始めているお客さまも何人かいましたので、私たちは当然、お客さまを助け、お客さまの側にいなければなりませんでした。それが私たちの役目でしたから」と村井本部長は当時を振り返る。
車両の緊急修理があちこちで必要とされていた。がれきだらけの道を走るため、パンクやサスペンションスプリングの故障が多く発生したためだ。修理用トラックがUDトラックス岩手本社のある盛岡から釜石まで定期的に送られた。
一方、車両を失ったお客さまも存在した。そこで村井本部長は中古車・中古トラックを手配したが、震災後で価格が急騰していたために、ここでも困難を要した。

Kamaishi_truck


前に進む

しかし明らかに、釜石に営業所が必要だった。津波は地元の多くのお客さまの事業を流し去った。UDトラックスの従業員は、営業所を新設して、お客さまが事業を再建するときに備えておきたかった。トラックのメンテナンスを行い、すぐに修理できる設備が強く求められており、それもお客さまのすぐ近くである必要があった。
2011年の終わりまでに、仮設建物を購入することが決定し、2012年2月に営業所が元あった場所に設置された。
新たに営業所所長に就任した高橋裕之さんは4月に到着した。周辺の建物は他に1軒だけ。営業所には電気、ガス、水道、電話といったライフラインがすべてなかった。
「仕事で使えたのは携帯電話だけでした」と高橋所長は思い起こす。
釜石での営業の長期展望も描かなければならなかった。最も重要なことは、どこに営業所を建てるかだった。元の場所は最も被害の大きな場所の1つであり、別案はもっと内陸に移転することだった。
「震災前はディーラーが多く集まる地域でしたが、みな去っていました。完全に廃墟となった場所に再建するのは並大抵のことではなかったからです」と村井本部長は語る。
「私たちも同じように移転を考えましたが、それまでのお客さまとのやりとりから、私たちはここにいるからこそ役に立つのだと知っていました」
以前の営業所は約30年間同じ場所にあった。そこは幹線道路の近くで、お客さまにとって便が良かったのだ。
「お客さまにとって、ここは馴染みの場所でした」と村井本部長は言う。
藤澤社長にとって、お客さまのニーズがある限り選択の余地はなかった。
「幹線道路の近くでなければなりません。山の中ではダメなのです」と藤澤社長は強く語る。
営業所を同じ場所に建設することが決定すると、玉山本部長の多忙な毎日が始まった。釜石市当局と会うために盛岡から通う日々だ。市当局との交渉期間は3カ月しかなかった。諸々の手続きの中でも特に、新設する建物が電気、水道などのライフラインを確保することを示さなければならず、さらには実際に手配しなければならなかった。
さまざまな困難は伴ったが、2012年6月、営業所の建築許可が下り、建設工事は9月に開始した。
新設営業所は、元の営業所を拡張し、整備用のベイを2つ備えることが決定した。これにより、お客さまのニーズにその場で素早く応えられる能力が大幅に向上する。
今年1月23日、営業所が正式にオープンとなり、玉山本部長はじめ従業員は、お客さまを10社招待し、小規模な開所式を催した。あくまでささやかなイベントにしたのは、釜石における復興はまだ緒に就いたばかりであり、参加者は全員そのことを認識していたからだ。
営業所が完成したとき、近隣で他に新設されていたビルはたった2軒だった。多くのお客さまは別の地域に設けられた仮設事務所で仕事をしており、本格的な施設を建てられるのがいつになるか検討もつかない状況だった。
「新しい整備工場がありがたいと言ってくださるお客さまもいましたし、私たちが釜石に戻って来たことを喜んでくださるお客さまもいました」と玉山本部長は語る。

kamachi


復興の小さなシンボル

釜石では今なお震災の爪痕がいたるところに残り、震災の規模と復興という課題の大きさが窺える。営業所のすぐ後ろには、積み上ったがれきを処理する巨大な施設がある。
この施設は営業所のお客さまともなっており、UDトラックスの車両が釜石市全域からがれきを運ぶのに使用されている。2年が過ぎたにもかかわらず、津波が残したがれきで処理できたのはほんの僅かにすぎない。
困難な状況が続く中、藤澤社長の願いは、新しい営業所が釜石市とお客さまにとっての“復興の小さなシンボル”となることだ。
メカニックスタッフはすでに忙しく、地元の資材輸送会社や復興関連の建設会社といったお客さまの車両を整備している。
建築工事はおそらくこれから何年も継続するはずだ。地元住民の多くはいまだ仮設住宅で暮らしており、多くの会社も仮の施設で営業している。
釜石市はじめ東北地域全体が先の見えない状況に直面している。それは営業所やお客さまも同じだ。営業所は新たな設備を整えたものの、お客さまの数は震災前に比べて依然として少ない。
中期的には、東北地域で必要とされる幅広い復興事業が地元経済を引き続き支えるだろう。しかし、建築工事が終わったときにどうなるのか。その答えは誰にもわからない。いずれにしても、この2年間、東北でそんな先のことを考える余裕のある人はほとんどいなかったのだ。
UDトラックス岩手はこの2年間、お客さまの急を要するニーズに確実に応え、お客さまが復興の長い道のりに着手できるよう力になることを優先してきた。
「地元の人たちの目に見えることをしたいという思いがありました。復興が始まっていることがわかる何かを」と藤澤社長は語る。
「そして私たちは全員、お客さまの側にいたかったのです」

Kamaishi-WS